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2012年2月16日 (木)

第60回 無欲で立ち向かえ

◇ 棟方志功の叱咤激励


    力とか、慾とか、そういうものがはいらない世界、
    本当に他愛のない世界から生まれてくる仕事、
    願うことではなく、願われる仕事、
    そんな慾でない慾を持ちたいものです。

               『板極道』(中公文庫)


  道を思い定めよ

『板極道』は版画家・棟方志功の自叙伝です。谷崎潤一郎が序文を寄せ、志功と同い年で友人でもあった詩人の草野心平が、棟方の逝去を悼んだ惜別の辞を後書としてのちに追記しています。そのなかで、草野は一篇の詩を捧げています。

  鍛冶屋の息子は。/相鎚の火花を散らしながら。  
  わだば(我は)ゴッホになる。
  裁判所の給仕をやり。/狢の仲間と徒党を組んで。
  わだばゴッホになる。
  とわめいた。
  ゴッホになろうとして上京した貧乏青年はしかし。 
  ゴッホにはならずに。
  世界の/。Munakata になった。
  古希の彼は。/つないだ和紙で鉢巻きをし。
  板にすれすれ独眼の。/そして近視の眼鏡をぎらつかせ。
  彫る。 
  棟方志功を彫りつける。

 青森市の腕のいい鍛冶職人の家に生まれた棟方志功は、ゴッホの「ひまわり」を見て、「ようし、日本のゴッホになる」と画家になろうと決心します。そして、この誓いどおり、油絵の道にのめり込み、二十一歳のとき上京。
 ところが、帝展などに油絵を出品するも、ことごとく落選。画家仲間や故郷の家族は、高名な画家に弟子入りすることを勧めますが、「師匠をとると、その師匠以上にはなれませんから、生涯師匠はとりません」と棟方は譲りませんでした。
 棟方は考えた。当時の画壇で頂点にあった安井曽太郎、梅原龍三郎でさえ、油絵では西洋人の弟子にすぎないではないか。「日本人のわたくしは、日本から生まれ切れる仕事こそ、本当のモノだと思ったのでした。そして、わたくしは、わたくしだけではじまる世界をもちたいものだと、生意気に考えました」
 そして、棟方は気づく。「ゴッホが発見し、高く評価して、讃美をおしまなかった日本の木版画があるではないか。よし板画で、それを表現しよう。自分の全部をそのことに展開させよう、これこそ、現代の世界画壇に贈る日本画壇の一本の太い道だ。その橋を架けよう、日本木版の大橋を。わたくしは、こう心の中で叫喚しました」
 こうして、版画ならぬ板画をもって「この道よりわれを生かす道なし、この道を歩く」(武者小路実篤)を信条に歩むようになります。
「白と黒を生かすためには、自分のからだに墨をたっぷり含ませて、紙の上をごろごろと転げまわって生み出すような、からだごとぶつけてゆく板画をつくってゆくほかはない、と思い切ったのでした。指先だけの仕事では何もない。板業は板行であって、からだごとぶつかる行なので、よろこんで行につこう、と心肉に自答決心したのでした」
 昭和十一年(一九三六)、国画会に「大和し美はし」を出品。この渾身の板画によって民芸運動で知られる柳宗悦、陶芸家の浜田庄司や河井寛次郎とめぐりあいます。そして、棟方は京都にもどる河井について京都へ行き、河井邸に四十日間滞在します。
 河井はこの若い才能の持ち主をかわいがり、棟方も父親のように河井を慕う。この滞在の間、河井は、人生というものは肉体的・物質的欲望から自由になることで仏を表していく過程と説く禅書『碧巌録』の教えを通して、「本当のモノは、名が偉くならずとも、仕事がひとりでに美しくなるようにきまっているものだ」と、名誉や欲のために制作するのではなく、純粋に仕事に向き合う姿勢を棟方に説いたそうです。
「力とか、慾とか、そういうものがはいらない世界、本当に他愛のない世界から生まれてくる仕事、願うことではなく、願われる仕事、そんな慾でない慾を持ちたいものです」という冒頭の言葉の背景には、そんな教えがあるのです。

  欲や力にとらわれない生き方

 棟方志功の板画人生を眺めていて、「心延え」という言葉が浮かんできました。人の心は覗くことができませんが、ときに、その人の心の内が自然と溢れ出るように外にあらわれることがあります。これを心延えといいます。
 棟方志功はひたすら、板すれすれに独眼の、そして近視の眼鏡をぎらつかせて、そこに自分自身を彫りつけるかのように彫ってきました。その姿は、名を挙げたいとか、名声を得たいという欲とは無縁の世界にありました。棟方の板画には、棟方の心延えが立ち昇っています。これ見よがしでないゆえに、棟方の板画は人々に受け入れられ、その後の棟方の仕事が熱望され、願われることになったのです。
 棟方志功は書いています。「融通念願というのでしょうか。自分で願わなくても、ほかの人が、たれかわたくしのために願いをかけてくれているというような、本当に自分から生まれたものではなく、人から生じた世界を遊んでいきたい。融通不生というのですか、あるいは、そういう遊びを乞うていきたい、そういう世界のところを、この命ある限り歩いていきたいと思うのです」
 仕事にしろ何にしろ、自分をアピールすることに汲々としている現代人、自然と溢れ出る前に自分は自分はと主張しなければならない現代人は、心延えとはまったく反対の方向に向かっています。そんなときだからこそ、自分を見失うことなく、おのずから溢れ出るものを大切にする「心の枠組み」を見直すべきなのではないでしょうか。
 おのずから溢れ出る人としての真価。そんな心延えのある人になりたいものです。

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